ういろう貰い

せっかく持っているアカウントは使おう。そう思い年単位の沈黙を経てはてなブログに文字を打っている。

私は今粛々と退勤をしており、身体は中央線の中、左手には白いういろうが握り締められている。

 

週に2日の出社の日。

今日は社長からお土産のういろうを貰った。マッチ箱ほどの大きさのういろうが詰められた箱の中から白色のものを選びデスクの上に置いておいた。

なかなか就業中外郎を食べたい精神状況&口内環境になれずういろうを持て余し、ビニールの封を開けず、ずっとういろうをにぎにぎしていた。

ビニールにみちみちに詰まった白い外郎は手のひらにちょうど収まるサイズでずっとひんやりしている。それを僕は壊さないように潰さないように、しかし自分のストレスをぶつけられるぎりぎりの強さでにぎにぎをしていた。

 

感覚としては昔流行ったハンドスピナーに近い。

作業に集中できない時、あえて別の簡単なタスクを用意することにより集中できる時がある。その効果を白いういろうが担っていた。

 

福島ではこういった手遊びのことを「てわすら」という。

校長先生が話してる時に何を作り出すでもなく土を触ったりするアレだ。

これに見合う言葉が「てわすら」以外に思いつかないので「てわすら」は標準語にしたほうがいいと思う。

覚えて帰ってください。「てわすら」

 

出勤退勤時のてわすらレギュラーはEarpodsをパカパカさせる事だったのだがそこに今日はういろうがいる。

右手でブログを書き

左手はEarpodsパカパカとういろうニギニギを行き来している男が中央線にいるってことさ。

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塔と子

噂の「サンチャイルド」を見た

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ふつーに感動してしまった

デカくて異様で存在感があった。撤去される前に観に行けてよかった。色々あって撤去されてしまう予定らしいけど色々については各自調べてください。

写真でお判りいただけるだろうかめちゃデカイのよ。こんなとこにあるはずのないものだった。それこそ宇宙から落ちてきたみたいな。たしかに胸の表示とか政治的科学的にミスってる部分はあるかもしれないけどそれでも僕はこの造形と存在感に感動しました。なんとか撤去しないでもらえないかな。

 

太陽の塔を観に行きたい。なんども大阪には行ったことがあるが太陽の塔を観に行くに至っていない。サンチャイルドに感じた感動以上のものがあるんじゃないかと思う。存在感異物感にうちひしがれたい。

 

高校時代の友達とお酒を飲みにいった。よく言うことだけどみんな変わってなかった。僕だけ就職していなくて恥ずかしかったり負い目を感じる会である事は予感していたけど見栄を張ったり嘘をついたりしないと言うルールで望んだ。2-3個しか嘘はつかずに済んだと思う。2-3個の嘘はまぁ許してくれや。

 

 

音楽を作るとき実体験をそのまま歌詞にしたりはしない。とはいえ経験してないことを0から創造しているわけではない。これまでの体験やそれに伴う感情、感想、視点のコラージュである。そして風化しかけてる記憶のモンタージュでもある。

それは嘘といえば嘘だし本当といえば本当。実体験であり空想。妄想であり体験なのだ。多分みんなそうなんじゃないかと思う。どうですか?

でも「いい帰路」って曲に関しては今日集まった人らを思って作った曲だ。

 

【MV】いい帰路 / yobai video - YouTube

 

「僕らの会話そのまま録音してラジオに出来るんじゃないの?」

とか寒いこと実際考える。毎回。

こういう恥ずかしい話は彼らにはしないけど。目に入りませんように。入っても気づかないふりしててくれや。

 

 

今について

ツイッターをしてると自分の、友人の、世界の今が可視化される。25年生きてきて、多分10年くらいツイッターやってきて今ばかり見てきた。今ばかり見てきたから未来と過去を気にせず生きてこれた。そのおかげで成し遂げられたことや強くあれたこともあるけど感じてこれなかったことが多かったことに気づいた。

友人の自殺が悲しくなかったのは彼との時間に思い馳せなかったから。彼ともうこの先会えない事を考えられなかったから。

自分に自信を持てたのは自分の過去を顧みなかったから。これからの自分の未来を想像しなかったから。

 

根拠のない自信と無配慮な鈍感が今はとにかく悲しい。

 

 

最近は専ら過去と未来について考えている。

今について考えたらこんなにたくさんのものを持っていて友人も恋人もいて幸福だと感じるのに、未来と過去を視野に入れると後悔と不安でいっぱいになる。

面談で先生に言われた

「お前は世間を舐めてる節がある」

ってのはこの事を言っていたんだと。最近気づきました杉山先生。

 

 

3月生まれは勝つことに慣れてない

主語を大きくする手法

 

三月生まれの私藤本は勝つことに慣れてない。対戦ゲームとかで勝ったあとどんな顔したらいいかわからない。なんなら友達とゲームしたりするとき負けると安心するくらいだ。

負けた相手を慮るやさしい人間なのかと言われればそんなことはないと思うし、相手の顔が見えない大会とかオーディションとかでは勝ったら嬉しいし負けたら悔しい。

 

僕が勝つと空気が悪くなると思ってる。

大喜びしてもムカつかれるしそんなに喜ばなくてもムカつくでしょ?それなら初めから勝たない方がいいし勝負事はしたくない。

負けず嫌いの逆。勝つのが嫌い。

 

勝ちたくはないけど優勝したい。

謎の感受性X

突然しりあいから

「ふじもとにとっての幸せって何?」

って連絡が来てそれ以来考えているのだけど、よく言う「美味しいもの食べて幸せ」って感覚が分からない。ものを食べてそれを美味しいと感じることはあるけど、だからと言って幸せだなぁとかは思わない。深く考えたらものが食べられていること自体が幸せであるとかそういった考え様な事はいくらでも上げられるけど、刹那的に今幸せだなぁって思うことってそんなにない。

本郷奏多も似た様なこと言ってた。美味しいと幸せは繋がってない。

ゆるキャン△を見てるけど絶景だとか良い景色を見ても幸せを感じると言うことはないなぁ。てかそもそもこちらに関しては景色が良いなと思うだけで感動したりはしないなぁ。

キャンプしたいなぁ一時間だけキャンプしたい。

得るもののない文章になってしまった。

何も思わない毎日です

 

透明になろうと思って(本当に透明にならない為に)ツイッター辞めた。

 

スポッチャ幸福ロンダリング

「不幸は半分こ、幸せは2倍」が人間関係だとするならば僕の人間関係はそのほとんどが不幸のための側面しかない。

半分こにされた不幸だけが身の回りにゴロゴロ転がっていて幸福の倍加は誰とも出来ていない。

僕に不幸を分けてくれた人たちもきっとどこかで幸福の倍加をしていて、僕だけがただでさえ少ない幸福を 1倍の1分の1の幸福をしがんでいる。

幸福の運用ができてないばかりに夜毎行われる決算報告は赤字。

友達がいない。ずっと人に会っていない。

要するに近くに友達がいない。

 

そもそも、幸福と不幸を抱えている時幸せな話は近くの人と分け合うべきだし、不幸な話は遠くの害が及ばないとこに放り投げたいと思うだろう。僕もそう思う。そのほうが利口だと思う。正直遠くの人の幸せな話を聞いたところで「知るか」って思う。

 

本当は全然行きたくないけどスポッチャ行きたい。

概念としてのスポッチャ。スポッチャのような所。

僕の中の幸福の象徴がスポッチャになっている。

スポッチャ行きたい

プロクラステスのベッド

僕は音楽家だ。だからカラオケに行ったり、楽器を目の前にしたりすると周りの人に音楽家としての力量を試されてしまう。

しかしだ、これが音楽家ではなく小説家だとしたら活字を残すたびに小説家としての力量を試されてしまうし、お笑い芸人出会ったら人と話すだけで芸人としての素養を試されてしまうのかもしれない。実に恐ろしい。小説もお笑いもしないことにしよう。しないけど

 

今日は早く起きて映画を観に行こうとおもったが雨だったからやめた。おそらく雨じゃなくても行ってなかったとおもう。

7時に起きて寝て、11時に起きて寝て、4時に起きた。今日はアルバイトもなく学校もないのでこの生活を誰に咎められる訳ではない。それは幸福なもので、その生活を失ってからかけがえのない愛しいものであったと気づくのだろう。しかし誰かに咎めて欲しいとおもってしまうのもまた真なのである。こんなに孤独を感じるのはセミダブルのベッドで毎日一人で寝ているからなのではなかろうか。独り身で大豪邸に住んで居てはきっと不便で孤独だろう。それと同じように独り身には1Kの六畳間、シングルの硬いベッドがお似合いなのだ。

毎日毎日ふかふかのセミダブルのベッドを持て余し孤独を蓄積させてきた。すぐには気づかないレベルの量を少しづつ少しづつ。その孤独がダムを決壊させるように溢れたのだ。

毎日ソファーで寝てやろうかと思う。

 

たまに人からラインが来る。僕にラインをよこすのは何か嫌なことがあった人、もしくはいい事がない人だ。幸せな人は僕に連絡なんかしない。僕だって幸せな時は人に連絡しようとは思わない。それにしたって虚しい。そうは思いませんか。誰からも連絡がこなかったらもっと虚しいけど。