3月生まれは勝つことに慣れてない

主語を大きくする手法

 

三月生まれの私藤本は勝つことに慣れてない。対戦ゲームとかで勝ったあとどんな顔したらいいかわからない。なんなら友達とゲームしたりするとき負けると安心するくらいだ。

負けた相手を慮るやさしい人間なのかと言われればそんなことはないと思うし、相手の顔が見えない大会とかオーディションとかでは勝ったら嬉しいし負けたら悔しい。

 

僕が勝つと空気が悪くなると思ってる。

大喜びしてもムカつかれるしそんなに喜ばなくてもムカつくでしょ?それなら初めから勝たない方がいいし勝負事はしたくない。

負けず嫌いの逆。勝つのが嫌い。

 

勝ちたくはないけど優勝したい。

謎の感受性X

突然しりあいから

「ふじもとにとっての幸せって何?」

って連絡が来てそれ以来考えているのだけど、よく言う「美味しいもの食べて幸せ」って感覚が分からない。ものを食べてそれを美味しいと感じることはあるけど、だからと言って幸せだなぁとかは思わない。深く考えたらものが食べられていること自体が幸せであるとかそういった考え様な事はいくらでも上げられるけど、刹那的に今幸せだなぁって思うことってそんなにない。

本郷奏多も似た様なこと言ってた。美味しいと幸せは繋がってない。

ゆるキャン△を見てるけど絶景だとか良い景色を見ても幸せを感じると言うことはないなぁ。てかそもそもこちらに関しては景色が良いなと思うだけで感動したりはしないなぁ。

キャンプしたいなぁ一時間だけキャンプしたい。

得るもののない文章になってしまった。

何も思わない毎日です

 

透明になろうと思って(本当に透明にならない為に)ツイッター辞めた。

 

スポッチャ幸福ロンダリング

「不幸は半分こ、幸せは2倍」が人間関係だとするならば僕の人間関係はそのほとんどが不幸のための側面しかない。

半分こにされた不幸だけが身の回りにゴロゴロ転がっていて幸福の倍加は誰とも出来ていない。

僕に不幸を分けてくれた人たちもきっとどこかで幸福の倍加をしていて、僕だけがただでさえ少ない幸福を 1倍の1分の1の幸福をしがんでいる。

幸福の運用ができてないばかりに夜毎行われる決算報告は赤字。

友達がいない。ずっと人に会っていない。

要するに近くに友達がいない。

 

そもそも、幸福と不幸を抱えている時幸せな話は近くの人と分け合うべきだし、不幸な話は遠くの害が及ばないとこに放り投げたいと思うだろう。僕もそう思う。そのほうが利口だと思う。正直遠くの人の幸せな話を聞いたところで「知るか」って思う。

 

本当は全然行きたくないけどスポッチャ行きたい。

概念としてのスポッチャ。スポッチャのような所。

僕の中の幸福の象徴がスポッチャになっている。

スポッチャ行きたい

プロクラステスのベッド

僕は音楽家だ。だからカラオケに行ったり、楽器を目の前にしたりすると周りの人に音楽家としての力量を試されてしまう。

しかしだ、これが音楽家ではなく小説家だとしたら活字を残すたびに小説家としての力量を試されてしまうし、お笑い芸人出会ったら人と話すだけで芸人としての素養を試されてしまうのかもしれない。実に恐ろしい。小説もお笑いもしないことにしよう。しないけど

 

今日は早く起きて映画を観に行こうとおもったが雨だったからやめた。おそらく雨じゃなくても行ってなかったとおもう。

7時に起きて寝て、11時に起きて寝て、4時に起きた。今日はアルバイトもなく学校もないのでこの生活を誰に咎められる訳ではない。それは幸福なもので、その生活を失ってからかけがえのない愛しいものであったと気づくのだろう。しかし誰かに咎めて欲しいとおもってしまうのもまた真なのである。こんなに孤独を感じるのはセミダブルのベッドで毎日一人で寝ているからなのではなかろうか。独り身で大豪邸に住んで居てはきっと不便で孤独だろう。それと同じように独り身には1Kの六畳間、シングルの硬いベッドがお似合いなのだ。

毎日毎日ふかふかのセミダブルのベッドを持て余し孤独を蓄積させてきた。すぐには気づかないレベルの量を少しづつ少しづつ。その孤独がダムを決壊させるように溢れたのだ。

毎日ソファーで寝てやろうかと思う。

 

たまに人からラインが来る。僕にラインをよこすのは何か嫌なことがあった人、もしくはいい事がない人だ。幸せな人は僕に連絡なんかしない。僕だって幸せな時は人に連絡しようとは思わない。それにしたって虚しい。そうは思いませんか。誰からも連絡がこなかったらもっと虚しいけど。

 

花見

田舎の電車は乗る人が少ない。乗る人が少ないから車輌も少ない。見る人が少ないから広告も少ない。

すると都市部の電車に比べ、ぐっと情報量が少ない。情報量が少ない状態を寂しく感じてしまうのだがこれがきっと若さなのだろう。なんとなく情報量の多い視界を情報量の多い音楽を情報量の多い味覚を欲してしまう。それは精神に雑音の多い若輩がそれらから耳を塞ぐ為であり、歳をとれば心は澄みその必要もなくなるのではないだろうか。

などと考えていた。

 

 

前の大学の友人と二人で郡山で花見をした。昨日までの予報では雷雨だとsiriが告げていたが、当日郡山についてみたら分厚い雲と青空がマーブル模様を描いていたが少なくとも雷雨ではなかった。

 

友人は四年間教育学部で学び、その事を一切生かさない北海道の職場に就職した女性である。

変化を嫌い現状を愛し人付き合いもそこそこにこなし多少うまくいってないことに焦ることもなく24歳にして孔子のいうところの不惑の域に達しているような人だ。
この「変化を嫌う」と「現状を愛す」のどちらかが逆の方向を向いていて苦しい思いをしている人が多い気がする。

変化を愛し現状を愛してる人、変化を嫌い現状も嫌っている人どちらも思い当たるひとがちらほら居る。しかし逆も反対も苦しかろうが対偶である「変化を愛し現状を嫌っている人」はそうではないのだろう。

 

花見に行く前にパンケーキ屋さんに行った。インスタ映えインスタ映えときゃいきゃい言いながらメニューを選んでいたが食欲に忠実に頼んだ僕の選んだ焼きリンゴと紅茶パンケーキはどこか茶色成分が多く、友人の頼んだココナッツクリームのパンケーキは清貧といった感じだった。インスタ映えというよりはおばあちゃんを思い出す感じですこし笑った。

 

北風がびゅうびゅう吹き荒ぶ公園で必死でチータラとビーフジャーキーを抑えながら飲んだハイボールはいたく体を冷やしたし酒を飲んだ時特有の筋が痛くなる感じを加速させた。しかしそれは桜たちも同じであり、桜とて朗らかな陽気のみを生きているわけではないだろう。桜の病める時も健やかなる時も雨の日も風の日も共にする事でより桜と心を通わせることができるのではないだろうか。

 

 

 

 

黒白水色透明赤

四月になった。大学院に進学した私の同級生たちも皆、社会人となり祝われたり労われたり叱られたりしてるのだろう。

僕が大学三年生というぬかるみに足を取られている間に同級生は愚か後輩まで社会人となり、羞恥心は鈍化する事もなく、人様に迷惑をかけることのないようなるべく小さくなって生きようと心がける毎日である(しかし春先の身体測定で身長が2cm伸びた)

同級生や後輩達に関してはそれなりにいい企業で働けているようでホワイト企業自慢にも辟易しているところではあるが、ブラック企業自慢されるよりは何倍もマシだろうとにこにこ話を聞いている。

当の私はブラックにもホワイトにもなれず、祝われも労われも叱られもせず、山田亮一の言うところの

「引き延ばしすぎた所為で水色になった青い春」

をさらに三年引き延ばしもはや透明になった何かをがぶがぶと消費している。

 

恥ずかしい恥ずかしいと思いながら生きている。音楽なんてやっちゃって多分人より多く恥を作りながら生きている事を自覚した。恥をかき捨てる事もできず恥の時限爆弾を量産し人目に晒しいつかきっとこれらが何かの弾みで起爆し、誘爆し、巻き込まれ爆死するのではないだろうかと四六時中怯えている。この恥を正当化できるだけの賞賛を得る事もなく、僕の一挙手一投足が黒歴史として刻まれづづけいつか誰かに今の私が参照され未来の私を苦しめるのではないかと考えて夜も眠れない。いっそ昼夜問わず寝続けていたい。

人生とは長い旅であり、旅の恥はかき捨てらしい。自分の過去を受容できる人間になりたい。女性は時に昔の自分の着てた服の界隈や音楽の界隈、その他過去自分の信じて属する事を良しとしていたものを馬鹿にし始める。そんな人が多い気がする。「女性は」とか言うべきでないことは知っているが、そんな気がする。しない?

 

このブログも例外でなくきっといつか恥に変わるのかもしれない

怖い怖い

 

だったら書かなきゃいいのに

 

独り言について

人と長い時間一緒にいるとイライラする。よくある言い回しをするならば一人の時間が必要。

最近気づいた。僕は頻繁に独り言を言う。ゲームをしてる時、作業をしてる時、料理をしている時よく言ってる。これは今自分で気づいた。

独り言は自分の考えを一旦頭の中から出して整理するために言うらしい。

困ったことにこの独り言、一人じゃない時に言うと独り言じゃなくなるのだ。誰に向けたでもない発言もなんとなく相手に聞かせたかったみたいな感じになってしまうのだ。言葉だけではない、咳払いも長座体前屈も貧乏ゆすりも一挙手一投足全てが意味を持ち誰かへのメッセージになってしまうのだ。相手にそのつもりがなくても僕の中で独り言がメッセージになってるかんじがしてしまうのだ。

これは僕にとってスピーチを無限に続けてると同じようなもので、息苦しくて仕方ない。

誰が悪いではなく僕が悪いのだけども。共感してくれる人もまぁいるんじゃないかなと思う。