スポッチャ幸福ロンダリング

「不幸は半分こ、幸せは2倍」が人間関係だとするならば僕の人間関係はそのほとんどが不幸のための側面しかない。

半分こにされた不幸だけが身の回りにゴロゴロ転がっていて幸福の倍加は誰とも出来ていない。

僕に不幸を分けてくれた人たちもきっとどこかで幸福の倍加をしていて、僕だけがただでさえ少ない幸福を 1倍の1分の1の幸福をしがんでいる。

幸福の運用ができてないばかりに夜毎行われる決算報告は赤字。

友達がいない。ずっと人に会っていない。

要するに近くに友達がいない。

 

そもそも、幸福と不幸を抱えている時幸せな話は近くの人と分け合うべきだし、不幸な話は遠くの害が及ばないとこに放り投げたいと思うだろう。僕もそう思う。そのほうが利口だと思う。正直遠くの人の幸せな話を聞いたところで「知るか」って思う。

 

本当は全然行きたくないけどスポッチャ行きたい。

概念としてのスポッチャ。スポッチャのような所。

僕の中の幸福の象徴がスポッチャになっている。

スポッチャ行きたい

プロクラステスのベッド

僕は音楽家だ。だからカラオケに行ったり、楽器を目の前にしたりすると周りの人に音楽家としての力量を試されてしまう。

しかしだ、これが音楽家ではなく小説家だとしたら活字を残すたびに小説家としての力量を試されてしまうし、お笑い芸人出会ったら人と話すだけで芸人としての素養を試されてしまうのかもしれない。実に恐ろしい。小説もお笑いもしないことにしよう。しないけど

 

今日は早く起きて映画を観に行こうとおもったが雨だったからやめた。おそらく雨じゃなくても行ってなかったとおもう。

7時に起きて寝て、11時に起きて寝て、4時に起きた。今日はアルバイトもなく学校もないのでこの生活を誰に咎められる訳ではない。それは幸福なもので、その生活を失ってからかけがえのない愛しいものであったと気づくのだろう。しかし誰かに咎めて欲しいとおもってしまうのもまた真なのである。こんなに孤独を感じるのはセミダブルのベッドで毎日一人で寝ているからなのではなかろうか。独り身で大豪邸に住んで居てはきっと不便で孤独だろう。それと同じように独り身には1Kの六畳間、シングルの硬いベッドがお似合いなのだ。

毎日毎日ふかふかのセミダブルのベッドを持て余し孤独を蓄積させてきた。すぐには気づかないレベルの量を少しづつ少しづつ。その孤独がダムを決壊させるように溢れたのだ。

毎日ソファーで寝てやろうかと思う。

 

たまに人からラインが来る。僕にラインをよこすのは何か嫌なことがあった人、もしくはいい事がない人だ。幸せな人は僕に連絡なんかしない。僕だって幸せな時は人に連絡しようとは思わない。それにしたって虚しい。そうは思いませんか。誰からも連絡がこなかったらもっと虚しいけど。

 

花見

田舎の電車は乗る人が少ない。乗る人が少ないから車輌も少ない。見る人が少ないから広告も少ない。

すると都市部の電車に比べ、ぐっと情報量が少ない。情報量が少ない状態を寂しく感じてしまうのだがこれがきっと若さなのだろう。なんとなく情報量の多い視界を情報量の多い音楽を情報量の多い味覚を欲してしまう。それは精神に雑音の多い若輩がそれらから耳を塞ぐ為であり、歳をとれば心は澄みその必要もなくなるのではないだろうか。

などと考えていた。

 

 

前の大学の友人と二人で郡山で花見をした。昨日までの予報では雷雨だとsiriが告げていたが、当日郡山についてみたら分厚い雲と青空がマーブル模様を描いていたが少なくとも雷雨ではなかった。

 

友人は四年間教育学部で学び、その事を一切生かさない北海道の職場に就職した女性である。

変化を嫌い現状を愛し人付き合いもそこそこにこなし多少うまくいってないことに焦ることもなく24歳にして孔子のいうところの不惑の域に達しているような人だ。
この「変化を嫌う」と「現状を愛す」のどちらかが逆の方向を向いていて苦しい思いをしている人が多い気がする。

変化を愛し現状を愛してる人、変化を嫌い現状も嫌っている人どちらも思い当たるひとがちらほら居る。しかし逆も反対も苦しかろうが対偶である「変化を愛し現状を嫌っている人」はそうではないのだろう。

 

花見に行く前にパンケーキ屋さんに行った。インスタ映えインスタ映えときゃいきゃい言いながらメニューを選んでいたが食欲に忠実に頼んだ僕の選んだ焼きリンゴと紅茶パンケーキはどこか茶色成分が多く、友人の頼んだココナッツクリームのパンケーキは清貧といった感じだった。インスタ映えというよりはおばあちゃんを思い出す感じですこし笑った。

 

北風がびゅうびゅう吹き荒ぶ公園で必死でチータラとビーフジャーキーを抑えながら飲んだハイボールはいたく体を冷やしたし酒を飲んだ時特有の筋が痛くなる感じを加速させた。しかしそれは桜たちも同じであり、桜とて朗らかな陽気のみを生きているわけではないだろう。桜の病める時も健やかなる時も雨の日も風の日も共にする事でより桜と心を通わせることができるのではないだろうか。

 

 

 

 

黒白水色透明赤

四月になった。大学院に進学した私の同級生たちも皆、社会人となり祝われたり労われたり叱られたりしてるのだろう。

僕が大学三年生というぬかるみに足を取られている間に同級生は愚か後輩まで社会人となり、羞恥心は鈍化する事もなく、人様に迷惑をかけることのないようなるべく小さくなって生きようと心がける毎日である(しかし春先の身体測定で身長が2cm伸びた)

同級生や後輩達に関してはそれなりにいい企業で働けているようでホワイト企業自慢にも辟易しているところではあるが、ブラック企業自慢されるよりは何倍もマシだろうとにこにこ話を聞いている。

当の私はブラックにもホワイトにもなれず、祝われも労われも叱られもせず、山田亮一の言うところの

「引き延ばしすぎた所為で水色になった青い春」

をさらに三年引き延ばしもはや透明になった何かをがぶがぶと消費している。

 

恥ずかしい恥ずかしいと思いながら生きている。音楽なんてやっちゃって多分人より多く恥を作りながら生きている事を自覚した。恥をかき捨てる事もできず恥の時限爆弾を量産し人目に晒しいつかきっとこれらが何かの弾みで起爆し、誘爆し、巻き込まれ爆死するのではないだろうかと四六時中怯えている。この恥を正当化できるだけの賞賛を得る事もなく、僕の一挙手一投足が黒歴史として刻まれづづけいつか誰かに今の私が参照され未来の私を苦しめるのではないかと考えて夜も眠れない。いっそ昼夜問わず寝続けていたい。

人生とは長い旅であり、旅の恥はかき捨てらしい。自分の過去を受容できる人間になりたい。女性は時に昔の自分の着てた服の界隈や音楽の界隈、その他過去自分の信じて属する事を良しとしていたものを馬鹿にし始める。そんな人が多い気がする。「女性は」とか言うべきでないことは知っているが、そんな気がする。しない?

 

このブログも例外でなくきっといつか恥に変わるのかもしれない

怖い怖い

 

だったら書かなきゃいいのに

 

独り言について

人と長い時間一緒にいるとイライラする。よくある言い回しをするならば一人の時間が必要。

最近気づいた。僕は頻繁に独り言を言う。ゲームをしてる時、作業をしてる時、料理をしている時よく言ってる。これは今自分で気づいた。

独り言は自分の考えを一旦頭の中から出して整理するために言うらしい。

困ったことにこの独り言、一人じゃない時に言うと独り言じゃなくなるのだ。誰に向けたでもない発言もなんとなく相手に聞かせたかったみたいな感じになってしまうのだ。言葉だけではない、咳払いも長座体前屈も貧乏ゆすりも一挙手一投足全てが意味を持ち誰かへのメッセージになってしまうのだ。相手にそのつもりがなくても僕の中で独り言がメッセージになってるかんじがしてしまうのだ。

これは僕にとってスピーチを無限に続けてると同じようなもので、息苦しくて仕方ない。

誰が悪いではなく僕が悪いのだけども。共感してくれる人もまぁいるんじゃないかなと思う。

 

 

冬に黙祷

ギャグマンガ日和の新刊を買った。

この本のポテンシャルを最大限に活かす為図書館で読んでいる。ギャグ漫画というものは図書館とか静かな場所で笑いを抑えながら読むのが一番面白いのである。本当は皮膚科の待合室で読みたい所だが生憎今のところ皮膚に疾患はない。

 

ぼくは小さい頃肌が弱く皮膚科に通いがちだった。皮膚科の待合室は静かで薬の匂いがして壁にはグロテスクな水虫やらの写真がたくさん貼ってあって苦手だった。しかしそこには漫画がたくさんあった。そこで待ち時間笑いを殺しながらいつも読んでいたボボボーボボーボボが本当に面白かったのである。

ある日自分で買ったのだが家で読むとこれが全く面白くないのだ。全く作者には失礼な話だけど。

アイスは暑いところで、おでんは寒いところで。が一番なのだ。

星空に虹がかかるように南国に降る雪のように。

は?

ギャグマンガ日和」という言葉の意味を考えたとき、やはりお葬式なのではないかと思う。

ギャグ漫画のポテンシャルを最大限に引き出すのはきっとお葬式の日なのだ。しかしそれは逆にお葬式のポテンシャルを殺すことと同義なのである。

この時、おでんに殺された寒さの気持ちを、アイスに殺された暑さの気持ちを皆さんは考えただろうか?今まで考えたことがあっただろうか。殺された夏に、冬に黙祷を捧げましょう。

 

 

 

 

 

 

暑いのと寒いのどちらが好きかと聞かれると私は寒いほうが好きだ。

暑さから逃れたとき。クーラーの効いた部屋に入る。アイスを食べる。ジュースを飲む快楽よりも。寒さから逃れたときの快楽、暖かい布団に入ったとき、うどんを食べたとき、人肌に触れたときの快楽の方がずっと人間的ではないだろうか。

f:id:fujiphone:20170207180439j:image

以上

-0.3度の福島より。

 

オリオン座はわかる

オリオン座はわかる。だからそこにオリオン座があるなぁって思う。本当は北斗七星もこぐま座もわかるけどオリオン座はよりわかる。

オリオン座がわかるからあの星の並びをオリオン座としかわからない。いかにもオリオン座って感じがする。他の星とつなぐ想像もしづらい。オリオン座がしっくりくる。

オリオン座は一年中いる。いつ見上げてもオリオン座が目につく。なんかそれはそれで損をしてるようなきがする。

 

わからない星座は見えない。

 

 

僕は茨城の国立大に入って、何年か居てやめていま地元福島の私立大にいる。

茨城の大学でできた友達とバンドをやっていて、この土日ミュージックビデオを作るべく水戸へ赴き撮影をした。後輩の家に泊まってしこたま飲むなどもした。2ヶ月くらい酒を飲んでいなかったから今内蔵の配列が変わったみたいな感じがする。

僕は前の大学が好きじゃなかったし学校にも行けなくなったし勉強もできなくなったけど、あそこで作った人間関係は自分が選んだものだったんだなぁと思う。

小中高までの人間関係は常に選ばされてきた。クラスやら地域やら親族やら。それが嫌いというわけではないのだけど、やっぱり自分で選んだ大学の自分で選んだサークル、その周りの人たち、やってたバンド、近くにいた人っていうのはある程度自分から選んだ人間関係だった。高校と何が違うのか?って聞かれたらうまく説明できないけど、明確に何かが違う。良し悪しあれどそれはプレシャスな事だなと思った。

選んだつもりになってるだけかもしれないけど、僕は選んだし選ばれたりもした。選ばれる工夫もしたし選ばれないよう気をつけたり選び間違えないように気をつけたり選ばれなくて悲しくなったりした。

 

最近年明けから人との別れが多い。

そういう星なのだろう。

あと、占いだと年明けあたりに出会う人がかなり運命の人らしい。今の所 特に誰とも出会っていない。

星に選ばれた人だ。